あかん

2001年3月16日
もう日記じゃない。これじゃー。
テレホーダイにかえてから
11時までインタネ繋ぐの待っとこう
→それまでなんか食べたり飲んだりする
→11時前にすごく眠たくなる
→寝てしまう
ということが続き、かえってネットから
足が遠のいてしまった。1800円分元取れないかも。

そう、久しぶりに前に書いた自分の日記を読んで
そんで書く気になったんだ。
2ヶ月見過ごされた肝癌再発のおっちゃんは
ちょっと前にようやく入院してきた。
でも、カルテの病名をみて驚き。
「小腸腫瘍」やて。
ちゃうでー。
肝臓ガンの腹膜播腫やでー。
まちがってるでー。
「手術目的」の入院になってた。
できひんでー。手術とか。
きっと腹の中に癌がばらまかれた状態やでー。
手術不能例やでー。

早くおっちゃんを病院から
釈放してやってくれ。

今日の日記

2001年3月3日
もういつからか記憶がないくらい
元来の便秘症なのですが、
ここんとこ少々その様子がかわりつつある。

仕事に行っている平日は常に腹部膨満感をかかえて
いるのだが、これが休日になると
途端に快便人間になる。
休みの日の朝は、便意で目が覚めることもあるくらいだ。

あと、最近また新たな現象がはじまった。
「パソコンの前に座るとうんちに行きたくなる」
ってやつである。
これは前述の現象とあいまって
休日のパソコン前、というのは下痢に近いような
便意を起こしてくれる。
このパソコン前便意は、連日とまではいかなくても
平日の夜にも案外効果を発揮してくれるので
とてもありがたく思っている。

ただし、インタネに繋いで5分くらいすると
もうトイレに立たなければいけない、という事が
よく起こるため必ず一度切断しなければならない。
面白いニュースとかがあって読み始めても
読みつづけることが出来ず
「あーーーーー、くそ」
と文字通りくそに行かねばならぬ。
でも、インタネのニュースはトイレから出てきて
また読み直せばいいが、一度逃した便意は
便秘状態の悪化を生む。
平日はきっとこの悪化を何度も繰り返し
雪だるま式便秘症とも言うべき結果をよんでいると思われる。

と、またこれを書いている今も
このへんにきてもう便意をちょっと我慢している状態。
もうだめ。
いってきまーす。

はあー

2001年2月27日
だめだ。
なんかこのごろ。
好き好きの鳥くん(仮名)と
ぎくしゃくだ。

私が過剰に意識してる気もするけど
彼の方も私の言うことに
いちいちつっかかる。
辛辣な批判をされている(ような気がする)

そんなにいわんでもいいやん。
っていつも思って
もう絶対話さないぞっ
と思うんだけど
なんか患者さんのこととかで聞かれると
ついへらへらと答え、
言わなくてもいいような
自分の意見みたいなことまで言ってしまって
冷たい言葉で締めくくられてしまう。
彼は医者で、あたしはパラメディカルだ。
あたしの口はしゃべりすぎるときがある。
それを彼はひどく嫌う。
「それから先は医者が考えるからいいよ」

言われあたしは置き去りにされる。
よくされる。

今日のカンファのときに
2ヶ月前から肝臓ガンの再発があって
検査した後主治医に言って、報告書にも
そう書いて、CTも撮ってそれにも写ってて
それでも見過ごされた症例があって
今月新たにエコーしてものすごく
癌が大きくなってて、またCT撮ってもらって
やっぱりものすごく大きくなってたので
みんなありゃまー、ってなった。
2ヶ月前に「再発だ、再発だ、追加治療はー?」
と私がもっと騒げばよかったのか?
鳥くんは「とにかく早くにオペ前検査組んで
手術やな」とか主治医に言って。
2ヶ月前には?2ヶ月前にも。
それから先は医者が考えるからいいって
言ったじゃん。
だからあたしは結果報告書をきちんと書いて
主治医に見せた。
そのあと撮ったCTもカンファにかかった。
でも誰も気にとめてくれなかったんじゃないか。
医者がさ。
2センチだった癌が6センチになって
おなかのほかの場所にもとんでるんだ。
たった2ヶ月で。
今更言ってもしょうがないけど、
嫌なのは医者たちは
「気が付かずにいた2ヶ月」で
私は
「知ってた2ヶ月」だということ。

ひがみか?

おう!

2001年2月26日
いつの間にこんなに月日はめぐったんだ。
えらい長いこと日記かいてないじゃん。

週末は扁桃腺が腫れて
血の混じった膿を吐きながら
寝てました。
病院に行く力もなく・・・(患者として)

自分で車運転したりあるいは
タクシーで病院に行くという行為は
それが出来る体力がいくばくか
残っている場合か、もしくは
家で寝ていることも苦痛で耐えられないか
のどちらかの状況のときなんだなあ。
あたしは起き上がって病院へ
移動するのは苦痛だったけれども
ベッドの上で死んだように眠りこけるのは
全然耐えられたので
軽症だったようです。

すっかり元気になっちった。

今日の日記

2001年2月13日
昨日の夢はなんか歯がゆくて悔しい夢だった。

私は高校時代コーラス部だった。
夢の中にその時の同じくクラブの友達が2人出てきた。
その中に一人、そのまま声楽の道を歩んだ子がいた。
夢の中でそのこから呼びかけがあって
もう一人のことあたしと3人で、ローカルな
コンサートを開こうという話になった。

設定としては私は直前に近いような何日か前に
持ちかけられ、おまけにカラオケ大会に
毛が生えたようなもんだという感覚で誘われOKした。

そして当日。
コンサート会場は公民館みたいなところで
楽屋はまるで民家の2階のようだった。
そこで私は言い出しっぺの彼女に
一応段取りを聞いた。
そしたら彼女はてきとーに話をはぐらかし
はっきりとした段取りなどない風だった。
その時、私はカラオケ大会なんだから、と思って
華原朋美の歌を歌おうと思っていた。
でも、考えてみると歌詞なんて暗記してないので
カンペが欲しいと思った。
公民館なので「夜もヒッパレ」のようなモニターもない
はずだと思ったので絶対に必要だと思った。
そして、このコンサートの世話をしている中年の女性がいるので
(設定ではどこかのプロダクションの企画的な仕事をしている人)
その人にカンペを用意してもらうよう依頼した。
彼女はちょっと険しい顔をしながら
どこかに電話をし、ファクスで届くよう手配してくれた。
そして、ジジジジーとファクスが吐き出した紙には
私が依頼したのとは全然違う、知らない演歌の
歌詞が印刷されていた。
「これじゃないです、私が頼んだのは・・・」
と言おうとして、すでに本番に向けてかなり緊張していた
私はその曲名さえもよく覚えていない状態になった。
どうしようどうしよう、と思っていると
企画係りの彼女はもう一度電話をしてファクスが動き出した。
ジジジ・・・次は華原朋美の歌だったが
私が言ったのとは違う、私の知らない歌だった。

そうしているうちに焦る私のいる楽屋のモニターに
残りの友達2人で始められたコンサートの様子が
映り出された。
何の打ち合わせも取り合ってくれなかったのに
彼女たち2人は綿密に用意されたと思われる
複数の衣装を着替え、おまけに振りまでつけて
踊りながら歌っている。
いつのまにか言い出しっぺの彼女は
自分の大好きな郷ひろみと手を取り合って
踊りながら歌っている。
「ひどい・・・これはきっと自分たちだけ
 練習とかリハーサルとかしたんだ。私はしてないのに」
そう思ってふと楽屋の中に、市報の記事を見る。
するといつのまにか私の写真も無断で使われ
言い出しっぺの彼女中心に
「アマチュアボーカルグループ初コンサート!」
みたいな記事が白黒で載っている。
なんなんだこれは。

私はすっかりすねてしまった。
だって私はカラオケ大会みたいなものと思って
普段着のジーパンとかできている。
おまけに着替えの衣装なんで当然持ってきてない。
なのにもう第一幕で彼女たち2人はドレスを2回ほど
着替えている。
あんなののあとの第二幕なんて絶対出たくない。
それならそうと教えてくれたらいいのに
段取りを聞いてもはぐらかされた。
なんのために?

そこで私は民家の2階風楽屋にこもたっきり
鍵をかちゃかちゃかけてたてこもってしまった。
それを知った企画係風の女が
言い出しっぺの友達に言いに行ったらしい。
彼女がドアをトントントントンとたたきながら言った。
「ねえ、出てきてよ。歌ってもらわないと困るよ。
 そうじゃないと夢の玉が・・・」

そのあたりで目が覚めた。
目が覚めた時にはその続きをもう少し覚えていたんだけれども
今はもう忘れてしまった。
「夢の玉」
その言葉だけははっきり覚えている。
夢の玉がどうなるって言ったんだっけ。

なんだか悲しくて情けない夢だった。



今日の日記

2001年2月11日
ここのところものすごくお気に入りで
好きで好きでたまらなくなったものがある。
それは「羽毛ふとん」だ。
去年の冬までは重い綿の冬布団にどうかすると
毛布を2枚かけて、おまけにボアの敷シーツを
使ったりしていた。
私は案外な寒がりで冷え性である。

羽毛ふとんは持ってはいたがお客用ふとんとして
買ったものだったので押入れに直しこんだままだった。
私はけちんぼなのでなんかもったない気がして
長年使っている、若いときに買ったやすーいおもーい
ふとんを使いつづけていた。
でも、去年の秋にかねてから欲しかった
セミダブルのベットを買った際に
気が大きくなってお客用にとってあった羽毛の掛け布団を
自分用におろすことにした。
考えてみたら泊まっていく客なんて年に何人もいないのだ。
あたしももう年取ったんだから
ちょっとは自分に贅沢させろよ。
大体ベット自体がそういう意味で買ったものだったので
すんなりと新品同様の(多分2回くらいしか使ってない)
羽毛ふとんを普段使いにすることができた。

まず最初の感想は。
「かるー」
今まで寝返りうつのも時に苦しく感じるほどの布団や毛布に
くるまって寝ていた私はどうも頼りない感じがして
羽毛ふとんなんて世間が言うほどのヤツでは
ないんじゃないかと疑ってかかっていた。

ところが、だ。
夜中に暑くて目が覚めた。
「なんじゃ、こりゃ〜っ」
タオルケットにプラスアルファ、ほどの重さのくせに
やたらコイツはあったかい。いや、暑い!
まだ秋口だったのでヤツの保温力はこちらが
求める以上の効果を放ってしまったのだった。

すばらしいっ。
この感動は12月、1月、と寒さが厳しくなるにつれ
増大していった。
夜からしんしんと雪が降り、何年かぶりに
15センチほどの積雪を記録したその日も
ヤツはなんなくこの寒さをうちまかした。
その夜私が着て寝たのはヤツと薄手の毛布の2枚だけだ。
この毛布も綿毛布程度の重さで
ひざ掛けの大きいやつみたいなのだ。
今まで私が使っていた毛布は俗に言う「マイヤー毛布」とか
いうやつで毛足のある2枚仕立てになってるやつだ。
これを2枚着て寝てたのに!
なんちゅーことだ。

なんでもっと早くヤツに出会わなかったのか。
今となっては悔しい限りである。
でも、今私はヤツと出会い、そのすばらしさを知ることができた。
幸せである。
一生離れたくない。
そんな思いも最近あまりすることがないので
貴重な存在である。

もう羽毛ふとんくらいむかーしから
使ってるわさ、何をいまさら、と思われる人が
沢山いらっしゃるでしょうが
もし、あなたがまだおもーい綿のふとんをかぶって
寝ているのならば、騙されたと思って
一度使ってみてください。羽毛ふとん。
きっと誰よりも信頼できるあなたのよき
パートナーになることとおもいます。

別に私は何十万もする羽毛ふとんのセールスの仕事とか
してるわけではありません。念のため。

だめだ

2001年2月6日
燃えないごみを出さないと。
安ワインのビンがもう既に
30本はたまっている。
燃えないごみはほぼ月に一回なので
月末に出さなきゃいけなかったのに
一月出しそびれたらこのざまだ。
この頃一日一本の割合で
ビンが増えていく。
比例して脳みそが溶けていく感じがする。
今言った言葉が思い出せないとか
今玄関の鍵かけたはずなのに
エレベーターに乗った途端
かけたか思い出せなくて戻ったり
そんなことが多くなってきた。

アルコール肝硬変でへろへろに
なってたおじちゃんの頭のCTを撮った
医者が言ってた。
「ほんとーに、脳みそが萎縮してたんだぜ
 びっくりー」って。
あたしもいつか頭のCT撮られて
びっくりされちゃうかもしれない。
ちっちゃくなっていってる気がする。

これだけは気をつけられないわ。



白い影

2001年2月4日
中居君の出てる医者ものドラマをはじめてみた。
やっぱ病院物となったら
医者と看護婦だ。
検査技師なんか絶対出てこないわさ。
あたりまえだけどよー。

エンディングで流れる曲は
マダム竹内まりやだ。
タイトルは「真夜中のナイチンゲール」だと。
出た途端にぎゃははは笑ってしまった。

ホンマ、みなあんがい真夜中に
ナイチンゲールしてまっせ。

思い出し日記7

2001年2月2日
告知をしてから、父は私たちに優しくもなり
また、甘えるようにもなりました。
あれが食べたいとか、あれを買ってきてとか
遠慮なく言うようになりました。
また、痛みは麻薬系の座薬で対処していましたが、
だいたい何時間おき、というふうにコントロールが
つくようになってきたので、先生とも話し合い、
一時退院することにしました。

家では、畳の部屋に布団をひいて寝ていましたが
それだと起き上がる時に力がいるので
急いでベッドを買いにいきました。
ベッドは居間に置き、母が炊事をしていても
目が届くようにしました。
私は通勤のこともあり、夕飯は実家に食べに帰り
夜は自分のマンションに帰って寝ました。
こうして4月の3週間、父は家に戻り、庭を眺めたり
猫と遊んだりし、母親の作る食事を少しづつですが
食べていました。
そして4月30日。GWのさなかでした。
昼間自分のマンションで久しぶりにだらだらしていました。
実はその前の日、母と言い争いをして
夕飯も一緒に食べずに帰ってきたのでした。
母も私も疲れが出始めていたのかもしれません。
それで、父も落ち着いてるし、今日は家でゆっくり
しようと決めていました。
すると昼1時ごろ電話がかかってきました。
「おとうさん、血尿がでてショックをうけてる」
とのことでした。急いで家に向かいました。
家にあった紙コップに尿をとっておいてありました。
「あんたに見せるっていって、採ったんよ」
尿自体も真っ赤ですが、なによりかさぶたのような
血の塊が混じっています。
膀胱浸潤。
少し落ち着いたように見える父親のからだの中では
容赦なく癌細胞がはびこりつづけていたのです。
本人はそこまでわからなくても
はじめて自分の目でみた癌細胞そのものだったはずです。
父はかなり精神的にまいりました。
すぐに病院に連れて行ってくれといいました。
しかし、今病院に行ったからといって、血尿が止まるわけではなく
血尿によって別の痛みが生じているわけでもありません。
休みの日は職員が少ないので、早い対応ができないことは
わかっていました。
他の症状がないことを父によく確認して
明日、病院に連れて行くことを約束しました。

そしてまた父は次の日から入院しました。
告知しても気丈に見えていた父でしたが
このときを境に、がくっと不安が強くなり
元気がなくなっていきました。

やはり私の決断は間違いだったのでしょうか。

思い出し日記6

2001年2月1日
肝心の、父本人には「慢性膵炎」ということで
とりあえず話をしてありました。
私は、癌だと診断された時から告知のことを
考えていました。
どれくらい先になるかは予想できないけど
確実に彼は死にます。
3年先5年先はないのです。
そのあいだ、だましたまま病院に寝かせておくのは
間違いだと思いました。
本当なら診断がついた時点でホスピスなどに
行けないかとも思いましたが、
私の住む県内に、きちんとしたホスピスは1箇所しかなく
自宅からはくるまで一時間以上かかるような場所でした。
そういう専門の場所で、精神的ケアが同時に受けられるのならば
告知をするべきだと思ったのです。
うちの病院は、心療内科は掲げているものの
実際は週1回外からやってくる医者がいるだけの
非常勤状態です。
末期状態の患者の精神的ケアができるような形では
ありません。外国人のように信心深い人間なら
そちらに頼ることもできますが、父は無信仰な人でした。
また、主治医になってくれた内科医長も告知には
反対でした。もともとそういう主義のようです。

でも、残された時間は誰でもない父のものです。
彼の体の情報、いや、今となっては余命の情報を
彼以外の人が知っているのに、本人が知らないのは
どういうものだろうか、と思いました。
本人には知る権利があります。
体が衰弱しているので、あれこれしたいことは
できないかもしれないけど、少なくとも最後の
何ヶ月、もしくは1年程を、どこでどのように過ごしたいかは
本人の望むようにしてあげたいと思いました。
また、日に日に、お腹が張ってきたり、痛みが強くなってきたり
自分の体が悪化していくことに、父は焦りを
感じ始めたようでした。
ある日、担当の看護婦さんから廊下で呼び止められました。
「あのね、この頃お父さん、すごく考え込まれて、沈んでるように
 見受けられるんだけど、どうかした?」
そう言われたときに私は決心しました。

入院して1ヶ月ほどたって、渋る主治医に何度かお願いし、
母と私も立会いの元、父へのガン告知が行われました。
主治医はカルテやCTなどを全部部屋に持ち込み、
現在の病状、それから考えられる病名を丁寧にきちんと
説明してくれました。
父は思ったよりも冷静に、「自分でもそうでないかと思っていました」
と答えていました。
最後に主治医は「僕は余り告知はしない主義です。やはり、人間は
弱いものですからガン、などという言葉を聞くと皆落ち込んで
病状が悪化することが多いからです。でも、あなたには家族の
きちんとしたバックアップもあるし、何よりも、あなた自身が
この事実を受け止められる立派な人だと思ったから、今日
全てを話しました。これからも、検査結果や病状など、全て話します。
だから一緒にがんばりましょう」と言ってくれました。
父は少し笑いながら「先生、どうもありがとうございました」
と言い、告知は終了しました。

父親は家では気難しく、外面がすごくいい、見栄はりな人です。
誉められるのが大好きな人です。
だから先生の最後の言葉はとてもありがたかったです。
私はその日、父の病気がわかってからはじめて泣きました。
自分が告知をしてもらうように決めました。先生に頼みました。
それは本当に正しかったのか、もしかしたら
大変な間違いを起こしたのではないのか、
こわくてこわくて涙が出ました。
先生がいなくなっても父は取り乱しもせず、笑っていました。
「そういうこと、なんやね」

その夜家に帰って、母が言いました。
「おとうさん、気丈そうにしてたけど、だいじょうぶやろか。
 一人になったらいろいろ考えたりしてないやろか。
 もし、悲観して自殺とかしたら・・・」
それは私も考えました。告知してもらう前に考えました。
でも、告知の目的は、余命が短いとわかった人間に
残った時間をどう使うか自分で選んでもらうということです。
だから、その使い方が「自ら命を絶つ」ということでも
それは構わないのではないかと思いました。
これからどんどん増す痛みや、苦しみはもういらない、
だから、意識のはっきりしている今に自分で死ぬことを
選んだのだ、というならばそれで全然かまわない。
何も知らない他人や親戚は「なんでそんなことを」と
言うかもしれないけれども、私たち家族は
お父さんが自分で選んだ生き方だから、決して恥などとは
感じず、それを受け入れてあげようよ、と母にいいました。

でもやっぱ母にはようわからん感じでした。

今日の日記

2001年1月31日
もうやだね。
今までもう20行ぐらいだだだだって打った
今日の日記がEscキーひとつで
一瞬で消えちゃったんだから。

書く気なくなり。

すごくかいつまんで書き直す。

ほのかちゃんって女の子が患者さんできました。
7歳。かわいかったです。
「ここ痛い?」って聞いても
首だけでうんとううんを教えてくれてましたが
一回だけ「いたいっ」と発声しました。
そのとき画面には彼女の腫れた
虫垂がぷりっと映ってました。
おかげで主治医にはえばって
「急性虫垂炎です」と報告した。
ほのかちゃんはお父さんにおんぶされて
ばいばいして検査室を後にしました。
この後痛い注射をされて
きっと手術です。

織田裕二が腰痛で「ロケットボーイ」はお休み。
代わりに「ザッツ踊る大捜査線」が放映されてる。
今日は「この仕事好きなんでしょ?」と言って
嫌がる深津絵理刑事に無理やりおとり捜査を
させるお話だった。

「この仕事好きなんでしょ?」

好きだよ。
ほのかちゃんは「いたいっ」以外は
お話してくれなかったけど
手術したら元気になって退院して
めでたしめでたしになってくれると
思うし、そんな時この仕事好きだなて思うんだよ。

でも仕事場は嫌いなの。
でも移る仕事場は世の中に沢山はないの。
いま就職難だし、もう年だし。
条件は厳しい。

きっとさっきの消えた日記は
これ位の行数でまだ、言いたいことの
半分くらいしか書けてなかったけど
これは大分書けてます。

また消さないうちにこんくらいで。

思い出し日記5

2001年1月30日
マンモス病院の診察が終わると父はもうくたくた
だったので、いったん家に連れて帰りました。
私は待ち時間の間に自分の病院に電話して
内科部長に事情を説明しました。
すると部長は「わかった。部屋をとっとくから連れて来い」
と言ってくれました。

そして次の日の午後、私は家に両親を迎えに行き
車で30分ほどの自分の勤める病院に連れてきました。
2000年2月16日。
この日から父の入院生活が始まりました。
内科部長は、消化器の専門なので、借りてきた
〇〇医院の資料を見てもらいました。
「大腸に複数の腫瘍があるけど、どれも外からの
 圧排像で、原発ではなさそうやね」
今のところわかっているのは、どこかに癌があって
それがおなかの中に広がり、大腸に外から浸潤し
腹膜炎をおこして腹水を生じていると。
CTを見ても腫瘍ははっきりしないのです。
でも、はっきりわかっているのは癌の末期だということ。

急なことだったので、4人部屋しかあいてませんでしたが
父はそれでもかまわないと言ってくれました。
とりあえず入院したので、食事が取れない分は
点滴でおぎない、痛みは痛み止めを定期的にしてもらえる。
母は、車の運転ができないので
5時過ぎまで父のそばにいて、私の仕事が終わると
一緒に車に乗せて帰る、という日々がはじまりました。
病院にくる時は母はバスを乗り継いで来ることに
なりました。そうすると1時間ほどかかります。
はじめは父も「毎日来なくても大丈夫だから」
と言っていたので、母は1日おきに通ってきていました。
私は母が来ない時は晩御飯の時間まで父のところにいて
お膳を下げたら帰ってくることにしました。

1週間ほどして、部長や、病棟の婦長さんの配慮で
個室にうつることになりました。
うちの病院は、職員や職員の家族(第1等親、え、親等っけ?まで)
にはとーても優しくて、基本的には個室を提供し、おまけに
部屋の差額代は半額免除だ。
大部屋だと職員が家族としてでも出入りするのに、本人、同室の患者さん
ともに気を使うから、という理由(らしい)
個室に行ってからは、トイレもシャワーもあるし、ソファーもあるので
ひどくなってからは何度か泊まりました。

母親には、父の病状を少しずつ説明していきましたが
はじめはなかなか理解できないようでした。
「だって、先月まで家の修理とかして、模様替えするのに
 おもーいタンスを私と2人で動かしたりしてたのよ。
 なのに、なんで」
なんでといわれてもそうだから仕方ない。

入院して、もう一度CTを撮っても、やはりどこもガンと思われる
腫瘍は見つかりません。
ただ、血液検査で膵臓癌のときに特異的に上昇する項目に
異常が見られます。これだけを理由に
父の病名は「膵臓癌(疑)、癌性腹膜炎、転移性大腸癌」
ということになりました。
膵臓癌はただでさえ手術が難しい例が多く、ましてや画像で
腫瘍像がとらえられていないため根本的に手術は対象外でした。
抗がん剤も膵臓に有効なものはまだ開発されていません。
どのような癌でも、癌性腹膜炎の状態まで進むと
それは完全に末期であり、手術の適応はありません。

母親にこれだけのことを理解させるのに
相当時間がかかりました。
と、いうか彼女はしばらくはその事実を受け入れていないようでした。
「もし、よくなったら」みたいなことを何度か言いました。
私は残酷だとわかっていたけれども、
患者本人が一番こたえる、これからの時期を乗り切って
もらうために、まずは母親にしっかりしてもらわないと
いけないと思ってので、はっきりと言いました。
「あのね、お父さんは死ぬのよ。もう治療の手だては何もない」
母親はこたつにすわったまま
「そう」
と言ったまま、もう「よくなったら」などということは
口にしませんでした。

思い出し日記4

2001年1月29日
もともとかかった開業医の先生は、その近くにある、
わが町で一番大きい総合病院に元勤めていたので
そこへの紹介状を書いていてくれました。
おまけに直接外科部長先生に、電話連絡もしてくれていました。
私は隣町の病院に勤めていたので、とりあえず
本来の紹介先の病院へはいったん受診して、そこで
事情を話し、父が望めば私の勤める病院に連れて行こうと思いました。
開業医と総合病院の関係と言うのはある意味複雑で、
そうしないとはじめに診てくれた開業医の先生の顔を
つぶしそうな気がしたからです。

でも、行った後ですごく後悔しました。
その病院は、病床数1200、マンモス病院で
外来患者数もハンパではありません。
朝8時半に、紹介状をもって行ったにもかかわらず
受付に1時間、採血までに1時間、診察までに1時間といった
調子で、1週間ほとんど食事もとれず、おまけに
癌性疼痛がはじまっていた父にとって、廊下の硬い椅子で待つ
3時間は耐えがたい苦痛だったと予想します。
待ち時間の途中で、痛み止めの座薬を入れに行きました。
採血をした後、しばらく待たされて呼ばれると
「はい、これ持ってレントゲンとって来て下さい」
事務的に伝票を渡す看護婦に、自分の立場を忘れて
ぴきっと切れてしまいました。
「あのー、〇〇先生から資料と紹介状を頂いてあずけて
 あると思うんですけど。採血はともかく、
 もう余計な被爆は避けたいんですが、X線写真が
 また必要ですか?」
と聞きました。すると若い看護婦が奥に入り
今度は婦長らしき年配の看護婦が出てきました。
「じゃあ、診察はもう受けられないということですかっ?」
私、そんなこと言いましたっけ?
前の病院で、胸写、腹単、CTまで撮ってるんだから
今更なにがいるのか?ちゃんとフィルム袋見たのか?って
言いたいんだよっ。レントゲン撮ったらまたその分待つでしょっ!?
そういうと、年配看護婦は診察室に入り、フィルムを
確認しに行った模様。そして
「おなかの写真が入ってませんから、撮って来て下さい」
とまたまた冷たく言う。〇〇先生めー、入れ忘れたなー。
大きな病院は、初診の時には最低限この検査をする、という
ルーチン的な決まりがある。もち、うちでもある。
わかっているんだけど、その時は私は完全に患者のいち家族に
なっていて、怒り爆発だった。
このまま診察など受けずに、自分の勤める病院に連れて行こうと
本気で思った。父や母に聞くと、2人とも疲れ果てていて
とにかくこの場所から帰りたいと言う。
もう一度受け付けに言いに行く。
「患者の状態が思わしくないので、もう診察を受けずに
 連れて帰りたいのですが」
そういうと、
「じゃあ、中にお入りください」と言う。
丁度順番が来た頃だったのかもしれないが
しょうがないので両親を連れて、カーテンで仕切られた
狭い診察室に入った。

そこで受けた説明は、私が朝3時間前に開業の先生に聞いた
病状を、やわらかくしたもので、手術ではなく点滴で
治療します、そのため入院が必要です、といったものだった。
私が隣町の病院に勤めていると言うことは伝えてあったので
「入院はここでもいいし、娘さんの勤める病院でもどちらでも
 かまいませんよ」と先生は言った。
父は即答した。
「娘の勤める病院にします」

このマンモス病院は待ち時間対策委員会を即座につくって
検討するべきだと思った。

私の勤める病院も外来患者は1日何百もいるので、初診の場合は
待ち時間が長くなるけど、3時間もあれば普通はもう結論が出て
よっぽどの病状じゃない限り、病院から開放されている時間である。
ましてや、癌だとわかって紹介状を持って来院する場合、
検査待ちの時間は処置室などのベッドで横になって待つように
配慮されている。そのためいつも外来や処置室のベッドは
満杯だし、看護婦さんの患者移動も大変だけれども
それは絶対に必要なことだと思う。
うちの検査室も、表のカウンターに「病状の重い方などを優先しますので
予約でも順番が入れ替わることがありますが、ご了承ください」と
張り出し、実践している。
ただ、その重症度を誰がどのように判断するかがちょっと曖昧だけれどもね。

思い出し日記3

2001年1月28日
思い出し日記を書いていたことを思い出したので
久しぶりに書いてみることにした。

そう、父が大腸カメラの検査を受けた開業医の先生というのは
私も多少知っている先生だったので、本当は資料を受け取る
だけだったのだけれども、受付の方にお願いして
ちょっとだけ先生に会わせてもらうようにお願いした。
5分ほど待って、診察室に「どうぞ」と呼ばれた。

「おはようございます。だいや(仮名)の娘です」
先生はカルテに目を通しながら、顔も上げずに椅子に
座るように勧めました。
「この度は父がお世話になって」
そう言ったときにやっと先生は顔を上げ、私を見て
ちっちゃい目を大きくしました。
「あらー、あーたのおとうさんやったんね。
 それは知らんかった」
「いや、こちらこそ、ご挨拶が遅れまして」
と、机で先生が見入っていたカルテにふと目をやる。
カメラのスケッチ、エコーの写真、病理結果・・・・
いろんなものが一気に目に飛び込んできて、一瞬頭の回路が
パンクするくらいに高速回転しました。
大腸カメラの結果には赤い隆起性病変があり、エコーでは
腹水がたまり、病理結果はGroup? adenocarcinomaという字が
見えました。
思わず「あ、」と声をあげてしまいました。
そのあと、先生が「もうわかるやろうけど」というふうに
ものすごく手短に病状説明をしてくれましたが
きっと私の顔は真っ赤だったと思います。
さっきの3つの検査結果で、父はもうすぐ
死ぬとわかってしまったからです。
つまり、大腸にガンがあり、それがおなかの中にひろがって
既に癌性腹膜炎の状態であると。
もう、手術が出来るような段階ではないと。

そのあとどうやって話を切り上げてきたかはよく
覚えていませんが、とにかく冷静に、取り乱すことなく
この病院を出ようと言うことだけを意識していました。

先生にお礼を言って、待合室に出ると、車で待っているはずの
母が、そこにいました。
「トイレに行きたくなったから、来た」
とまだのんびりしたふうに言います。
「で、どうやった?」
軽く聞く。軽く聞くな。
受付で、資料と紹介状をもらいながら
「おかあさん、あとでゆっくり話すけど、思ったより悪いよ」
母は「え」と言いましたが、突然ことだし、私もこの場で
それ以上の説明も出来ずに、足早にその病院を出ました。

車で待っている父のところに行くと
ほんの10分前よりもより心細げに、痩せて見えました。
「大きな病院でよく調べた方がいいってことだから、行こうか」
私がそれだけ言うと、父は素直にうんうんとうなずき、
私の車に先導されて、その病院を後にしました。

今日の日記

2001年1月27日
なんかつまんない日だった。
明日は日曜出勤なので
もう寝よう。

今日の日記

2001年1月25日
母親と電話で話をした。
父が死んでから、母子で案外長電話する。

兄はずっといい子だった。少なくとも私は
兄が親に反抗するのを見たことがなかった。
私は「口答えをする」というのが親から叱られる
一番の理由だった。

兄は大学卒業するまで家にいて、外泊もせず、
両親のいうことをよくきいた。
私は高校卒業すると、通えないような学校を受け
一人暮らしをしぶしぶ両親に納得させた。

兄は就職して自立すると家を出て、
それきり約20年、ほとんど家に帰ることはなかった。
結婚も父の反対を押し切る形でしたので
兄嫁も孫たち(姪甥)も父の生前は家に来たことはなかった。

父が末期のガンだと分かり、入院することになったとき
私は子供時代からたくさん親と衝突してきたと自覚しながら
放っとくことが出来なかった。
自分が病院職員だと言う事もあったけれど
入院していた4ヶ月間、最後に過ごした自宅での
1ヶ月間とても親から離れることはできなかった。
でも、親にとっていい子だった兄、
反攻などしたことなかった兄は一ヶ月に一度見舞いに来るか来ないか
ぐらいだった。

きっと兄は子供の頃反抗しなかった分
どんどんと父親に対する鬱積した思いを
ためていっていたのだろうと思う。
親とやっと離れることが出来て
彼はきっとその思いを今までの鬱積を全て
「かかわらない」という形で昇華させたのだと思う。
恨むとかいうことではなく、
「何も感じない」と言う形で解決したのではないかと思う。

母と電話で話している中で
「お兄ちゃんは私がお尻を叩いて叱ったりしても
 何も言わずに、でもじっとこちらの顔を見つめていた。
 でも、あんたは『でていけっ』って叱ったら
 『はい、でていきますっ』といってぷ
いっと出て行ったりした」
私は我慢がない性質だった。
でも、その後で母が言った。
「お父さんが仕事から帰ってきて、そういう風に言ったら
 すごく叱られた。
 『あの子がそう言われたらどうする性格かお前は全然わかってない』ってね」
私は今でも覚えている。
小学校低学年の時だ。
出て行けと母に叱られ、意地っ張りの私はもう薄暗くなった外に
飛び出した。
公園の土管の中とかにいたりしたけど
どうしていいかわからず、とぼとぼとあてもなく、そして
怖くて泣きながら歩いていたのだ。
でも、最後どこにいたのかまでは覚えていなかった。
「お父さんと一緒に探しに行ったよ、もうくらーくなってたけどね。
 そしたらあんたは真っ暗な池のほとりに一人で座ってた。
 それを見た時に『この子はなんて意地の強い子だろう』ってあたしは
 思ったね。でも、私の顔を見た途端に泣きながら走り寄ってきたけどね」
最後の場面は私の記憶にはない。
ただ覚えているのは、帰ったらその日の夕飯が
カレーだったことくらいだ。

でも、その時に母が父から叱られたことは今日始めて聞いた。
確かに母親は私の、いや、自分以外の人がこう言われると
こう思う、ってことが全然分からない人なのである。
それを父親はよくわかっていて、
おまけに私がどういう子なのかもよくわかっていたのである。
小さい時は嫌いでしょうがなかった父。
でも、この頃父親の夢をよく見る。
元気だったままで出てくる夢。
死んだように青白い顔でしゃべっている父。

頑固で偏屈な父親だったけれども
嫌いだったけれども、本当は好きだったです。

きっと兄には一生分からない。

 

今日の患者さん

2001年1月23日
病院で検査の仕事をしています。
人からは「エコー屋」とよばれています。

昨日時間外に残って片付けごとをしていたら
部屋の内線がなりました。
誰だよこんな時間によお、と思い出ると
「もしもし、あれ、ICUじゃないの?間違っちゃった」
その声は私の好き好きな鳥くんです。
「ちーがーいーまーすー。エコー室ですけど」
「あれー。あ、でもまたいたんやねえ。今紹介で
 急性腹症がきたんやけどー」
急性腹症とは原因のまだわかっていない急な腹いたの
ことを言います。
そういう人の原因を探すことも私の重要な仕事のひとつです。
「あーそー。今からみてもいいよー」
病院内にいる限り、そういう患者を受け持った先生に
見つかるとそのまま拉致されることもままあるので
そのように聞き返しました。
「うーん、どうしよーかーなー。とりあえず入院させるから
 明日でいいやー。明日お願いしとくねー」
といって電話は切れました。その日はそれで帰りました。

そして今日の朝また鳥くんから電話が入って
「昨日の人、案外データが悪いんだけどいつ頃できるかなー?」
聞かれました。
「どんな様子なの?」
と聞くと
「うん、イレウス」
イレウス。
日本語で言うと腸閉塞です。ありゃー、緊急系だわー。
とりあえず午前中のできるだけ早い時間に目標をたてると約束して
朝はよーから並んで来ている外来患者をちぎってはなげ、ちぎってはなげ
(ってことはありませんが)終わらしていきました。
午前中って言ってもぎりぎり昼前になってやっとその
イレウスの患者さんまでいきつきました。
本人はいたって元気で、部屋までは車椅子できたものの
部屋に入るととっとと自分で歩いてベットにあがってました。
「腹やらもういとうない」
とおっちゃんはぺらぺら好きなことをしゃべっていました。
ま、そう言っても腹の中は外からはわからんからね、とか言ってなだめて
検査開始。
確かに軽度拡張した小腸が画面にいっぱい映し出されます。
それを見た時点で
「あー多分appe(虫垂炎)じゃー」と直感しました。
大体直感が合うことが多いのですが、何分占い師とかではないので
根拠を示さねばなりません。
エコーをして、虫垂炎としても根拠を示すとは。
腫れた虫垂の写真をとること。それひとーつ。
でもおっちゃんは太鼓腹のうえに小腸が張っている。
おまけにぺらぺらしゃべっているので腹が動く。
「ちょっとだまっとってね」とそれとなく言っても
2分と経たずにまたしゃべりだす。だまれーっ!
もーー、と諦めかけた頃にぐるぐる動く小腸の下敷きになった
虫垂がぼわーんと見えてきました。
もう半分溶けたようになった様子がおぼろげながらわかります。
糞石もある。周囲脂肪識炎もあり。
この10−15分の検査の間に、結論を決めて検査を
終了せねばなりません。
「よっしゃ、appeでいこう」
正直言ってこういうときは、ええい、ままよ状態です。
絶対これです、なんて言える時なんてそうそうない。
この結果で患者さんが腹を切られたり、また逆に手術が遅れたりする
と思ったら、この「ええい、ままよ」の時間がいつも
私の胃痛の時間です。
とりあえずまたおっちゃんは元気に病棟に帰りましたが
鳥くんに電話して「あたしはappeだとおもう」と報告しました。
「俺もそーかなーってデータ的には思ってけど、今全然痛みがないやろう?
 どーーかなーーーー」
と言っていましたが、とりあえず外科紹介になりました。
外科の先生も鳥くんと同じでデータとしてはappeで合うんだけど
いまひとつ身体症状が弱いなーってな感じだったそうです。
「でさ、だいやつやこ(仮名)さんのエコー所見に願いを託して
 切ってみる事にしたから」
などと殺生なことを言う。
午後3時手術開始。4時半頃には結果がわかるでしょうとのこと。
その間の長かったこと。

で、結果は。
6時頃鳥くんがカンファの部屋にだーっと入ってました。
にこにこしてた。
「いやーappeで正解。おまけに破れとった。opeってよかったよー。
 相当迷ったんやけどねー」
って言葉を聞かせてくれた。
よかったー。
よかったー。
そのあとカンファに集まったお医者さんたちと
いやー、つくづくappeって難しいもんよね、appeにはじまり
appeに終わるって感じよね、俺たちの仕事ってさ。
なんて話にそーっと混じって
(そうそう)
とうなずいていたのでした。

今日の日記

2001年1月21日
夢をよく見ます。
きっと部屋の電気をつけたまま寝るせいだと思うけど、
案外大作を見ることが多いです。

この間は母親を殺した夢を見ました。
多分凶器は包丁だったように思う。
多分、というのは殺したその場面はよく
覚えていないからです。
包丁を持っていて、タイルでその持った手を
ぐるっと巻いていたような気はします。
なんかタオルを使いました。

その場面からぽーんととんで、
地元のバスセンターにいました。
刑事とおぼしき男の人が何人かいて
「さあ、一緒に行くよ」ってなことを
私に言いました。
私は抵抗するつもりはなく
一緒に行こうとしましたが
刑事の人数が多すぎて、一緒の車に乗れませんでした。
そこで私は別にバスで行こうと思いました。
外は確か雨でした。
でも、乗らなければいけないバスは
別便で行く、と決めた途端に出て行ってしまいました。
どうも、それでバスで行く道はたたれたようでした。
それで、タクシーで行こうと思いました。
この頃になると
「あまり警察につくのが遅くなると逃亡したと勘違いされる、
私にはそのつもりはないのに」
という思いで、あせりがでてきました。
タクシー乗り場で待っていても
なかなかタクシーは来ません。
ふと気が付くと、何故か2階にもタクシー乗り場が
ありました。
急いで2階に上がっていくと、そこには沢山の人が
並んでいました。その割にはタクシーは来ません。
そして、今まで並んでいた1階のタクシー乗り場には
どんどんタクシーが来ていて、皆が列をなして
そちらに並んでいます。

そんなところで途切れました。
夢はいつも色がついています。
自分では、とても長い夢を見るなあと
思っています。

時にはここに書けないような夢も見ます。
どんな夢か?

決して書けません、ほんとに。では。

あらら

2001年1月13日
これでわ、日記ではなく週記になっております。
仕事を辞めたいです。
辞めたい辞めたい言いながら
幾年月。
今度こそ、ほんとに辞めたいです。

みんな無責任です。
うちの部署の受付嬢ができちゃった結婚して
年末いっぱいで産休に入りました。
産休用員を入れてくれと要請して2ヶ月。
やっとこさバイトを入れてくれたのは
12月29日、仕事納めの日でした。
仕方なく産休嬢ちゃんは仕事始めの1月4日
出てきてくれましたが、その後はもう
来ませんということで、
引継ぎ期間はわずか2日。
それも年末年始で通常よりも仕事量が少ない
2日間ときた。
その後通常どおりの業務になって、
引継ぎほぼなし状態のバイトちゃんは
当然なにもできずに、現場はパニック状態。
困ったので申し訳ないけれども
産休嬢ちゃんにHELPコールして
「調子のいい時にあと1-2日引継ぎに
 出てきてくれないか」と電話をすると
あっさりと「No」と言われ、おまけにバイトちゃんには
名指しで「だいやつやこさん(仮名)に仕事は
習ってください」と言われたとのこと。
あたしは別に自分の業務があるので
時間中には教えてあげることはできない。
けれども、バイトちゃんは習うために時間外に
残るつもりはない。
まだ、今日も現場はパニック。
おまけにバイトちゃん別の部署で急に欠員が
出たために、院内ヘッドハンティングに
あっていると言う話。
こっちはバイト、狙ってるところは正社員。
誘惑の甘い罠状態。
でも、彼女にとってはバイトよりも正社員の方が
きっとよいでしょうに。
そうすると、そっちを選んでも彼女を責める
わけにはいきますまい。
言われるままに、バイトちゃんはそちらの
採用試験を受けましたとさ。
結果はまだ出ていないとのことで
仕事を教えるなどという段ではなくなった。
だって、教えてる最中に
「採用試験に合格しました。じゃあ、あっちに
 もっていきます。さよならー」
ということがあり得るんだから
こっちも本気で仕事を教える気になれない。
もし、試験に受かったら、また別のバイトを雇って
もらってその人にゼロから教えないといけんのやから。
こっちの身にもなって。

それで、簡単なことだけ今の採用待ちバイトちゃんに
させてたら、古株姉さん方は
「なんで、あれもこれも教えないの」
と、私を責める。
うるさいよ。
尻拭いをするのはどーせあたしなんだよ。
何がどうなっても。

いったい人事は何考えてるんだと
上に言ってものほほんとしらんぷり。
自分の腹は特に痛まないものだから
びっくりするくらいしらんぷりだ。

できれば尊敬できる上司の下で
働きたいんだけれども
日本では今それは奇跡ですか?

今日の日記

2001年1月6日
思い出し日記がなかなか書けないです。
日々混乱しているからかな。

お正月も終わりましたね。あけましておめでとうございます。
今年は喪中だったので年賀状も書かなくて済んだし
初詣とかにも行かずに済んだ。
父が亡くなっていきなりだけれども、
来年の一周忌や初盆のことを考えて
実家は仏間とかをちょっと広げる改築をしました。
年末に工事が終わったので
正月はちょっぴり新しくなったで過ごしました。
「いやー、きれいになったねえ」と誉めた反面
ちょっとだけれども広くなった一軒家に
母親をいつも一人でおいているという罪悪感が
増築分だけ増した感がありました。

私は正直言って母親のことがあまり好きではないです。
正確に言うと、好きな部類の人種ではないです。
いくら親子でも価値観も違うし性格も違う。
母と私を自分の中で比べると、血液型占いは
強ちウソではないなと思ってしまうくらいです。

でも、兄は結婚して家族がいて別に家もかまえてしまった。
私は独身で賃貸のマンションに住んでいる。
通勤も実家から通えない距離ではない。
それだけの理由では私的にはとても実家には帰れない。
何故ならば母のことが好きではないから。

母親としては放っておけないという気持ちはある。
でも一緒に暮らすのは息が詰まってしまう。
人はそれをわがままだという。

私はそんなに悪いことをしていますか。
私はそんなに悪いですか。
誰か私のことを悪くないといってくれませんか。
私は悪いですか。
私のしていることは悪いですか。
誰か言ってください。私が悪くないって。
悪いですか。
悪いですか。
悪いですか。

誰か私のことを悪くないって言ってください。

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