思い出し日記5

2001年1月30日
マンモス病院の診察が終わると父はもうくたくた
だったので、いったん家に連れて帰りました。
私は待ち時間の間に自分の病院に電話して
内科部長に事情を説明しました。
すると部長は「わかった。部屋をとっとくから連れて来い」
と言ってくれました。

そして次の日の午後、私は家に両親を迎えに行き
車で30分ほどの自分の勤める病院に連れてきました。
2000年2月16日。
この日から父の入院生活が始まりました。
内科部長は、消化器の専門なので、借りてきた
〇〇医院の資料を見てもらいました。
「大腸に複数の腫瘍があるけど、どれも外からの
 圧排像で、原発ではなさそうやね」
今のところわかっているのは、どこかに癌があって
それがおなかの中に広がり、大腸に外から浸潤し
腹膜炎をおこして腹水を生じていると。
CTを見ても腫瘍ははっきりしないのです。
でも、はっきりわかっているのは癌の末期だということ。

急なことだったので、4人部屋しかあいてませんでしたが
父はそれでもかまわないと言ってくれました。
とりあえず入院したので、食事が取れない分は
点滴でおぎない、痛みは痛み止めを定期的にしてもらえる。
母は、車の運転ができないので
5時過ぎまで父のそばにいて、私の仕事が終わると
一緒に車に乗せて帰る、という日々がはじまりました。
病院にくる時は母はバスを乗り継いで来ることに
なりました。そうすると1時間ほどかかります。
はじめは父も「毎日来なくても大丈夫だから」
と言っていたので、母は1日おきに通ってきていました。
私は母が来ない時は晩御飯の時間まで父のところにいて
お膳を下げたら帰ってくることにしました。

1週間ほどして、部長や、病棟の婦長さんの配慮で
個室にうつることになりました。
うちの病院は、職員や職員の家族(第1等親、え、親等っけ?まで)
にはとーても優しくて、基本的には個室を提供し、おまけに
部屋の差額代は半額免除だ。
大部屋だと職員が家族としてでも出入りするのに、本人、同室の患者さん
ともに気を使うから、という理由(らしい)
個室に行ってからは、トイレもシャワーもあるし、ソファーもあるので
ひどくなってからは何度か泊まりました。

母親には、父の病状を少しずつ説明していきましたが
はじめはなかなか理解できないようでした。
「だって、先月まで家の修理とかして、模様替えするのに
 おもーいタンスを私と2人で動かしたりしてたのよ。
 なのに、なんで」
なんでといわれてもそうだから仕方ない。

入院して、もう一度CTを撮っても、やはりどこもガンと思われる
腫瘍は見つかりません。
ただ、血液検査で膵臓癌のときに特異的に上昇する項目に
異常が見られます。これだけを理由に
父の病名は「膵臓癌(疑)、癌性腹膜炎、転移性大腸癌」
ということになりました。
膵臓癌はただでさえ手術が難しい例が多く、ましてや画像で
腫瘍像がとらえられていないため根本的に手術は対象外でした。
抗がん剤も膵臓に有効なものはまだ開発されていません。
どのような癌でも、癌性腹膜炎の状態まで進むと
それは完全に末期であり、手術の適応はありません。

母親にこれだけのことを理解させるのに
相当時間がかかりました。
と、いうか彼女はしばらくはその事実を受け入れていないようでした。
「もし、よくなったら」みたいなことを何度か言いました。
私は残酷だとわかっていたけれども、
患者本人が一番こたえる、これからの時期を乗り切って
もらうために、まずは母親にしっかりしてもらわないと
いけないと思ってので、はっきりと言いました。
「あのね、お父さんは死ぬのよ。もう治療の手だては何もない」
母親はこたつにすわったまま
「そう」
と言ったまま、もう「よくなったら」などということは
口にしませんでした。

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