思い出し日記6
2001年2月1日肝心の、父本人には「慢性膵炎」ということで
とりあえず話をしてありました。
私は、癌だと診断された時から告知のことを
考えていました。
どれくらい先になるかは予想できないけど
確実に彼は死にます。
3年先5年先はないのです。
そのあいだ、だましたまま病院に寝かせておくのは
間違いだと思いました。
本当なら診断がついた時点でホスピスなどに
行けないかとも思いましたが、
私の住む県内に、きちんとしたホスピスは1箇所しかなく
自宅からはくるまで一時間以上かかるような場所でした。
そういう専門の場所で、精神的ケアが同時に受けられるのならば
告知をするべきだと思ったのです。
うちの病院は、心療内科は掲げているものの
実際は週1回外からやってくる医者がいるだけの
非常勤状態です。
末期状態の患者の精神的ケアができるような形では
ありません。外国人のように信心深い人間なら
そちらに頼ることもできますが、父は無信仰な人でした。
また、主治医になってくれた内科医長も告知には
反対でした。もともとそういう主義のようです。
でも、残された時間は誰でもない父のものです。
彼の体の情報、いや、今となっては余命の情報を
彼以外の人が知っているのに、本人が知らないのは
どういうものだろうか、と思いました。
本人には知る権利があります。
体が衰弱しているので、あれこれしたいことは
できないかもしれないけど、少なくとも最後の
何ヶ月、もしくは1年程を、どこでどのように過ごしたいかは
本人の望むようにしてあげたいと思いました。
また、日に日に、お腹が張ってきたり、痛みが強くなってきたり
自分の体が悪化していくことに、父は焦りを
感じ始めたようでした。
ある日、担当の看護婦さんから廊下で呼び止められました。
「あのね、この頃お父さん、すごく考え込まれて、沈んでるように
見受けられるんだけど、どうかした?」
そう言われたときに私は決心しました。
入院して1ヶ月ほどたって、渋る主治医に何度かお願いし、
母と私も立会いの元、父へのガン告知が行われました。
主治医はカルテやCTなどを全部部屋に持ち込み、
現在の病状、それから考えられる病名を丁寧にきちんと
説明してくれました。
父は思ったよりも冷静に、「自分でもそうでないかと思っていました」
と答えていました。
最後に主治医は「僕は余り告知はしない主義です。やはり、人間は
弱いものですからガン、などという言葉を聞くと皆落ち込んで
病状が悪化することが多いからです。でも、あなたには家族の
きちんとしたバックアップもあるし、何よりも、あなた自身が
この事実を受け止められる立派な人だと思ったから、今日
全てを話しました。これからも、検査結果や病状など、全て話します。
だから一緒にがんばりましょう」と言ってくれました。
父は少し笑いながら「先生、どうもありがとうございました」
と言い、告知は終了しました。
父親は家では気難しく、外面がすごくいい、見栄はりな人です。
誉められるのが大好きな人です。
だから先生の最後の言葉はとてもありがたかったです。
私はその日、父の病気がわかってからはじめて泣きました。
自分が告知をしてもらうように決めました。先生に頼みました。
それは本当に正しかったのか、もしかしたら
大変な間違いを起こしたのではないのか、
こわくてこわくて涙が出ました。
先生がいなくなっても父は取り乱しもせず、笑っていました。
「そういうこと、なんやね」
その夜家に帰って、母が言いました。
「おとうさん、気丈そうにしてたけど、だいじょうぶやろか。
一人になったらいろいろ考えたりしてないやろか。
もし、悲観して自殺とかしたら・・・」
それは私も考えました。告知してもらう前に考えました。
でも、告知の目的は、余命が短いとわかった人間に
残った時間をどう使うか自分で選んでもらうということです。
だから、その使い方が「自ら命を絶つ」ということでも
それは構わないのではないかと思いました。
これからどんどん増す痛みや、苦しみはもういらない、
だから、意識のはっきりしている今に自分で死ぬことを
選んだのだ、というならばそれで全然かまわない。
何も知らない他人や親戚は「なんでそんなことを」と
言うかもしれないけれども、私たち家族は
お父さんが自分で選んだ生き方だから、決して恥などとは
感じず、それを受け入れてあげようよ、と母にいいました。
でもやっぱ母にはようわからん感じでした。
とりあえず話をしてありました。
私は、癌だと診断された時から告知のことを
考えていました。
どれくらい先になるかは予想できないけど
確実に彼は死にます。
3年先5年先はないのです。
そのあいだ、だましたまま病院に寝かせておくのは
間違いだと思いました。
本当なら診断がついた時点でホスピスなどに
行けないかとも思いましたが、
私の住む県内に、きちんとしたホスピスは1箇所しかなく
自宅からはくるまで一時間以上かかるような場所でした。
そういう専門の場所で、精神的ケアが同時に受けられるのならば
告知をするべきだと思ったのです。
うちの病院は、心療内科は掲げているものの
実際は週1回外からやってくる医者がいるだけの
非常勤状態です。
末期状態の患者の精神的ケアができるような形では
ありません。外国人のように信心深い人間なら
そちらに頼ることもできますが、父は無信仰な人でした。
また、主治医になってくれた内科医長も告知には
反対でした。もともとそういう主義のようです。
でも、残された時間は誰でもない父のものです。
彼の体の情報、いや、今となっては余命の情報を
彼以外の人が知っているのに、本人が知らないのは
どういうものだろうか、と思いました。
本人には知る権利があります。
体が衰弱しているので、あれこれしたいことは
できないかもしれないけど、少なくとも最後の
何ヶ月、もしくは1年程を、どこでどのように過ごしたいかは
本人の望むようにしてあげたいと思いました。
また、日に日に、お腹が張ってきたり、痛みが強くなってきたり
自分の体が悪化していくことに、父は焦りを
感じ始めたようでした。
ある日、担当の看護婦さんから廊下で呼び止められました。
「あのね、この頃お父さん、すごく考え込まれて、沈んでるように
見受けられるんだけど、どうかした?」
そう言われたときに私は決心しました。
入院して1ヶ月ほどたって、渋る主治医に何度かお願いし、
母と私も立会いの元、父へのガン告知が行われました。
主治医はカルテやCTなどを全部部屋に持ち込み、
現在の病状、それから考えられる病名を丁寧にきちんと
説明してくれました。
父は思ったよりも冷静に、「自分でもそうでないかと思っていました」
と答えていました。
最後に主治医は「僕は余り告知はしない主義です。やはり、人間は
弱いものですからガン、などという言葉を聞くと皆落ち込んで
病状が悪化することが多いからです。でも、あなたには家族の
きちんとしたバックアップもあるし、何よりも、あなた自身が
この事実を受け止められる立派な人だと思ったから、今日
全てを話しました。これからも、検査結果や病状など、全て話します。
だから一緒にがんばりましょう」と言ってくれました。
父は少し笑いながら「先生、どうもありがとうございました」
と言い、告知は終了しました。
父親は家では気難しく、外面がすごくいい、見栄はりな人です。
誉められるのが大好きな人です。
だから先生の最後の言葉はとてもありがたかったです。
私はその日、父の病気がわかってからはじめて泣きました。
自分が告知をしてもらうように決めました。先生に頼みました。
それは本当に正しかったのか、もしかしたら
大変な間違いを起こしたのではないのか、
こわくてこわくて涙が出ました。
先生がいなくなっても父は取り乱しもせず、笑っていました。
「そういうこと、なんやね」
その夜家に帰って、母が言いました。
「おとうさん、気丈そうにしてたけど、だいじょうぶやろか。
一人になったらいろいろ考えたりしてないやろか。
もし、悲観して自殺とかしたら・・・」
それは私も考えました。告知してもらう前に考えました。
でも、告知の目的は、余命が短いとわかった人間に
残った時間をどう使うか自分で選んでもらうということです。
だから、その使い方が「自ら命を絶つ」ということでも
それは構わないのではないかと思いました。
これからどんどん増す痛みや、苦しみはもういらない、
だから、意識のはっきりしている今に自分で死ぬことを
選んだのだ、というならばそれで全然かまわない。
何も知らない他人や親戚は「なんでそんなことを」と
言うかもしれないけれども、私たち家族は
お父さんが自分で選んだ生き方だから、決して恥などとは
感じず、それを受け入れてあげようよ、と母にいいました。
でもやっぱ母にはようわからん感じでした。
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